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P 旧姓:パイパン大好き

Author:P 旧姓:パイパン大好き
パイパンが大好きでSMに関心がある初老の男性でしたが、アダルトSMに関する興味・関心が薄れ、それに代り毒母・親子関係に悩み心を病んでしまっています。

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寛容
愛読サイトのコメントにあった言葉、、『寛容、自尊心』
今まで深くその意味を考えたことがなった、読んでいるうちにドンドン引きこまれた。

先ず今回は 『寛容』
私が今まで何となく判った気になっていた寛容とは⇒相手を許す、受け入れる、
どちらかと言えば、私が上の立場?相手を見下すような思い上がった感覚があった。 

そうじゃないんだってことを、気づかせてくれた・・、
「寛容とは私が相手に示すものであって、他人である相手から私が要求するものではない」  だから、私が常日頃いっている「私のことを判ってくれ!」 言い換えれば「私に対して寛容になれ!」と同じで、 しかも一番最初に「私のことを判ってくれ! 理解してくれ!」と言っているに等しい。

そうじゃなくて、、私が先に相手のことを理解する! 何を理解するかと言えば、『自分と相手は違う』 
同じような姿かたちをして同じ言語を交わして会話、意志疎通が出来ているかのように思えるが“自分と相手は違う”
ここで言う“相手=他人”とは自分以外の全て人間は、つまり毒親、兄、姉も全て違う人間=相手なんですよね、

私と相手とは顔形から、全てが違う! 全く別の人間なんだと言うこと、
例え同じ親から生まれたとしても、顔形性格全て異なっている、だから違う考え方、感じ方をしていることを知って認める・・・、
≪以下自分でもよく判らない状態で書き進んで行きます≫
これが相手を認めることらしい・・・、
更に相手を認めれば自分も認めることが出来るらしい・・・、自分を認めれば、自分に自信が持てるらしい、、、
それが自尊心に繋がっていくらしい、、、、

愛読サイト | 【2016-06-27(Mon) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ラクダ、、
前記事から引き続きラクダ(=私)の話です。
ラクダが水を飲みたいことを外から気づくのは不可能。 ラクダ自身が自ら水を飲みたいことに気づくしかない!
ラクダにとって水は生きて行く為には必要不可欠。 ラクダにとっての水の大切さ⇒価値、私には何だろう・・・、

 ⇒ 健康と幸せは失ってから初めてその価値に気づく・・・、、

私にとっての『幸せ』とは何か? これまた考えたことも無いので、全く思い浮かばない・・・(ノ_<)
そこで、道に逸れるかもしれないが、私がしたいことをすれば楽しい? 楽しければ“幸せ?”と置き換えて考えた。

それでは「私のしたいことは何だろう?」  
この際現実的なこと(=年齢、容姿、腰の痛み・・・)は一切無視して、、思いつくままに列挙すれば
 ⇒「美味しいものを食べたい、、旅行に行きたい、 好きな映画・テレビを見たい、若い綺麗な女性とエッチがしたい、女性とデートしたい、若返り健康になりたい、 ダンス競技会に出て優勝したい!・・・」

一つ例にすれば・・≪若い綺麗な女性とエッチがしたい!≫ 

現実には相手の女性が必要なのだが、お金の力で独りで出来る場所=風俗に通った。 
当時は腰を痛める前で年齢も20歳台前半で元気・やる気満々で! 溜まったモノを出してスッキリその時は気持ちよかった! 楽しかった! 充実感・満足感があった!
・・・・が、その後に虚しさ、虚脱感に襲われた、それが嫌で風俗に行かなくなった。 

私のしたいことの一部はお金の力を借りれば可能だ、 ネット上の情報ではレンタル友達? レンタルした相手(男性、女性)と飲み会、食事、デートまで可能らしい、 私が嘗て通った風俗もレンタルと言えるだろう、、

独りで没頭できる趣味:陶芸、絵を書くとか、それでも出来上がった作品を誰かに見て、評価して貰いたい願望が生まれるだろう、
ふと気づいた、先に上げた“したいこと”私一人でやろうと思えば出来ることもあるが、それだけで楽しいか?
心の何処かに、誰か一人でもいいから、私を見て貰いたい! 認められたい願望はあるだろう、
“したいことをする”これも大切だが、重要なのは「誰と〇〇する!」これだろう、、

愛読サイト | 【2016-06-19(Sun) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
幸せの種
愛読サイトで『幸せの種』 という言葉を知った、読んで最初は何を言っているのか判らなった。
その後、コメント投稿を読み込んで・・・・、私に全く無かった思考回路、視点、着眼点にショックを受けた。
 ⇒ 健康と幸せは失ってから初めてその価値に気づく・・・、、
唯一、確信・実体験を持って身に染みて理解できたことは『健康』 腰を痛めて初めて気づいた“価値” 

私の『幸せ』って、何だろう? 全く判らない、思いつかない! 
これを評して⇒自分で自分の心の視野を奪っていることに気づかない、見えていない、つまり見る気がない、見たくない!
これは如何言うこと? 何を言っているんだろう・・・、これまた直ぐには理解できなかった、、

そこで思いついた 「ラクダを水辺まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という例え。
 ⇒どんなに環境を整えたり、導いたりしたとしても、最後は本人の意思でしか人は動かない、
 ⇒無理に水を飲ませようとしても、相手は抵抗するだけ、 納得できなければ人は動きません。
 ⇒頭では理解できても、腹に落ちない・・、腑に落ちない・・、腹を割る必要がある。

ラクダは水を飲まないと弱って死んでしまう、周りの人には判っているから必死で水を飲ませようとしているのだが、
当該ラクダは水を飲まないって・・・、 自ら死を選んでいるってこと?

私がラクダだとしたら、喉が渇いて生命の危機に瀕していることに気づいていないって、、有り得ないだろう!
けれど、これだとしたら・・、
 ⇒自分で自分の心の視野を奪っていることに気づかない、見えていない、つまり見る気がない、見たくない!

問題はラクダ自身、喉が渇いているとは思っていない、しかし人には喉が渇いて生命の危機だと見えている。
恐らく、人間の判断が正しいのだろう、、しかしラクダと人との間には意思の疎通が計れない、

やはり『ラクダ自身が水を飲みたい!』 これに気づくしか方策はない!!

愛読サイト | 【2016-06-18(Sat) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愚痴る
愛読サイトの記事に書かれていた・・・・、グウの音も出ないほどに打ちのめされた!

私は嘗て、世間一般の奥様達の旦那さんに対する“愚痴” 「やれ給与が安いとか、 帰りが遅いとか、家事を手伝わないとか、子育てに協力しないとか、浮気しているとか」 私はこれら話を聞くのが嫌いだった! ウザかった!
だから「そんなに文句を言うなら、サッサと離婚すればいい!」と、投げ捨て気味に言い放った。

しかし モノの見事にブーメランで私に返ってきた。
散々毒親に対して不平不満をぶちまけ、我が身の不幸を訴え! 泣き叫んだ!・・・・が、そこで止まった!
止まって何も変わっていない、変わらないから愚痴ばかり、変わらないのは何故か?  
私が変わることしなかった、つまり変わらない状況を選んだ!
そのことを⇒ 「選んでおいて愚痴るのはお門違い、筋違いだ!」 
ど真ん中のストライク、剛速球を胸に投げ込まれ突き刺さった! 参った! 完ぺきに打ちのめされた!!

変える気もないのに愚痴ばかりは、、まさに奥様達の旦那さんへ愚痴と同じ。
“別れると収入が・・、生活できない、子供が小さい、子供の為に離婚はしない方が・・・・”
もっともらしく聞こえるが、要は離婚しないことへの自己弁明・正当化、≪〇〇の為に我慢している≫

「こんなに辛いことを我慢しているんだから、愚痴ぐらい聞いてくれてもいい筈」となるような気がする・・、
愚痴を聞かされる方はいい迷惑、ウンザリ、 最終的に愚痴の捌け口=感情のゴミ捨て場が子供?
この子供が私だったような気がする、小さい時に散々父親の悪口を聞かされた、子供心に「そんなに嫌なら、判れたらいいのに・・」と、実際に口に出して言った。
それに対して「今別れたらアンタ(=私)が困るでしょ! ご飯が食べれんで! 困るのはアンタ!」と、

嘗て私は毒親(=母親)の感情のゴミ捨て場・ゴミ箱にされ、愚痴を投げ込まれ続けた。
そして今の私は新たな人間を感情のゴミ箱扱いをして愚痴を投げ込んでいる! ぶつけている!

 『過去は過去、これか先を如何するのか』  まさにその通り!!
今まで出来ないことアレコレと言い訳をして何も行動をしてこなかった・・、逃げていた! 
だから現状は変わらない、変わらないから愚痴ばかり、 見事なまでの堂々巡り、
今の私がここにいるのは誰かに無理やり強制されているのか!違うだろう・・、私が自ら何もしないからこうなった!

愛読サイト | 【2016-06-17(Fri) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
男のプライド、沽券、再び・・、
某愛読サイトの記事並びにコメントに興味を惹かれた、それはまるで私のことを言っているように感じた・・、
それは何故か? キーワードとなる単語が多々あった・・・、

 ⇒ 男の沽券、プライド、男らしさ=モラハラ、理想の女性像、正義感、“Should 思考”~べきである

今まで考えもしなかったこと ⇒ 男らしさはモラハラに繋がる、そして理想の女性像を持っている。
言われてみて気づいた、、その通りだ! 

次に引っかかったのは『正義感!』 思い当たるフシが多々ある!
時々「世の中の不正が許せない!」的な怒りの感情が沸き上がることがある、これが私の正義感?
しかしよく考えれば『私の言うことは正しい! 周りの人間は私の言うことを聞け!』 ここからの正義感?
イヤ違うだろう・・、私が「正義感だ」と言っているのは自分勝手な考えを正義感と置き換えているに過ぎない。

私は初老を迎えた今でも、心の何処かに自分の思い描く“男らしさ”を捨て切れないでいる。 
だから現実の自分(=年齢、容姿、腰への不安、独り身・・・)が受け入れられない、その理由を正当化? 
愚痴っている・・、その裏返しに“男はカクあるべきだ!”と、、傍から見れば独り善がり私的な拘りだ。

最期に引っかかったのは「Should 思考」~べきである。。これ! 
私の思考回路はまさに、“〇〇すべきである” ⇒男は〇〇・・、女は〇〇・・、凝り固まっている!
ここでも『俺の言うことは正しい、、周りは俺の言うことに従え!』に繋がる。

今回も愚痴のオンパレードだ、、愚痴ってはいるが、心の何処かでは「現状のままでいい、私は変わりたくない・・」 
⇒⇒≪何時か白馬に乗った王子様が迎えに来てくれ、私を現状から救ってくれる・・・≫ 
初老男性の私、散々「男とは・・・」と言いながらも、本性はお姫様願望のシンデレラ症候群の依存症なのだ。

私の“男らしさ”と≪お姫様願望=依存≫は両極端にあると思うが、深層では自らの本性を知っているからこそ、
必死で隠そうとして表の仮面を被って、“それを”意識の深い底に押し込めてしまっていることすら、自分の意識の中から消し去っているのではないだろうか、

愛読サイト | 【2016-06-16(Thu) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ブーメラン現象 ⑦
私は毒親に対して「文句ばっかり・・・・」と、声には出さず心の中で繰り返し叫んでいる。 
その言葉の後には「何もしない、自ら汗をかかない、」 これもブーメランなので≪私のこと≫を言っている訳だ。

現に、私はブログや某サイトで「文句を・・・⇒愚痴っている!」 何度も同じ文句を、愚痴を言っている。
それで今日まで過ごしてきて、何か変わったのか? 何も変わらない! 私も自ら汗をかいていない・・・。

私は人にアドバイス、助言を求めているような素振りを見せているが、、本性は『人の話を一切聞かない』
何故?そうなってしまったのか・・、そこで思い出したのは子供の頃、友達に判らなくて聞いて、その通りにしてえらい目にあった! 騙された! 馬鹿にされた! イジメだったのだろうか、、今となってはよく判らない、、、

そして特徴的な出来事として覚えているのが、薬を飲むように医師に言われたのだが、毒親から「薬は体に悪い!飲んだらイカン!」と言われ、飲むのを止めて酷いことなった。
また「自分の尿を飲むと体にいい!」と言われ、実際毒親は自分の尿を飲んでいた。私は自分の尿を飲んだのだろうか、覚えていない、

そこまで母親の言うことを素直に聞いたのは『子供を可愛く思わない母親はいない! 母親は子供を守り育てている! 母親が嘘をつくわけがない、、母親の言うことは正しい!』 こんな風に信じて決して疑わなかった! 

若しかしたら、、そこから人の話を聞かなくなった、イヤ、、聞くフリをしているが心の何処かで「嘘を言って騙そうとしている」と人を疑りようになったのかも、、
幼少期が仮にそうだとしても、成長してものごとの分別が判る年齢になればそれなりに判ることだ。

私はチャンと反抗期に反抗していただろうか、・・・してなかったように思う、素直ないい子だった=表面上は、
おとなしく素直で物わかりのいい態度を取っていたが、本性は他人を常に疑って、人の言うことは一切聞かない!
≪人は嘘をつく! 頼れ信じれるのは自分だけ!≫ こんな風に凝り固まって行ったのではないか、

愛読サイト | 【2016-06-15(Wed) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ブーメラン現象 ⑥
私は“嘘つきの八方美人”だ、
その私が「ブログにコメント頂くと嬉しい」と感じる・・・、しかしこれは嘘!≪コメントはいらない! 嬉しくない!≫
つまりに前に書いた『黙って俺の書いてあることを読んで、賛美を送れ! 反論するな!』これに繋がる。

矛盾しているが、「もうコメントしません!」言われて、ショック!! 激しく落ち込んだ!! 
“経験者からナマの声が聞けない! 印象・感想を聞きたかった!” 今はそう思っているが・・・、
これも嘘なのか~、如何にも納得できないなぁ~、

コメントを貰って“嬉しい” これも嘘なのだから≪嬉しくない≫ 
今回のように耳の痛いコメントを頂いた時は驚きはしたが、嫌悪感は今思い出しても無かった。
それは何故か? 読んで誹謗中傷ではないと感じたからだ。

私見なのだが、ネット上で見ず知らずの人間の書いたことに対してコメント送ると言うのは相当の勇気がいるモノだと思う、
私の経験上、“コメントする”とは相当高い壁だ。 それまでにブログを相当前から読み込んで理解して、そのブログ管理者がどんな人か想像して書かれている内容を理解していないとコメント投稿が出来ない、

だからコメントを頂いて知った愛読サイトを読んでいたのだが、私は理解できなかった・・・、コメントが出来なかった・・・、
それはそうだろう、、判らない=相手を拒否。 共感も感動もなくコメント投稿は有り得ない、、

繰り返しになるが、『コメントを貰うのが嬉しい=嘘』 如何しても納得がいかない、 
誹謗中傷でなければ、、ヤッパリコメントを貰うと嬉しい!! それは読んでくれていること証拠でもあるから、、、、
今回のコメントを頂いていた方は特に私は信頼をしていた方だったから、、尚のことショックで、とても落ち込んだ。

一度信頼を失うと、もう二度と取り返せない、“後悔先に立たず”、モノの見事に実践してしまった。

この際女々しさの上塗りでも何でもいい! 
誹謗中傷でない限り、コメント頂けるのは嬉しい!! だから、、コメント受付を再開します。

愛読サイト | 【2016-06-14(Tue) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
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