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P 旧姓:パイパン大好き

Author:P 旧姓:パイパン大好き
パイパンが大好きでSMに関心がある初老の男性でしたが、アダルトSMに関する興味・関心が薄れ、それに代り毒母・親子関係に悩み心を病んでしまっています。

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就職して
大学を卒業して、某企業へ就職した。 
配属された部署での世間的なアルアル的なこと、つまり社内恋愛・出会いとかは私にはいっさいに無かった。
女性に関心が無かったわけではないが、仕事に集中してやる気になって燃えていたことが大きい、

それでも数年後にはやっと周りを見渡せる余裕が出来て、気になる女性が出来て、、話しかけて暫くして話をするようになり、食事にも誘うことが出来るようなった、その時は「この女性と結婚する・・」かも、こんな考えも頭の中にチラホラと、それなり私の真剣な思いを伝えていた・・・・が、これが全くの私の勘違い! 完全に独り相撲だった。

そんな時に職場に男性が突然訪ねてきた。
 話をしてわかったこと、この男性は某国立大学医学部在籍の学生だったか、研修医だったか、 そして私が誘った女性の付き合っている男性だと!! しかも女性の両親にも公認されていると、私には青天の霹靂!!

確かに、お相手に付き合っている男性の存在の確認を言葉ではしていなかった!! これが私のミス。
けれど何度となく誘って食事もして色々話をしていて・・、これは行ける!と、、 
しかし 現実は私が完全に舞い上がって周りが見えていなかった訳だ。

医学生の彼曰く、、彼女の母親か父親が病気で医学部付属の病院へ入院していて、その時に出会ったと、そこから付き合いが始まり両親にもチャンと挨拶をしていて、今は学生?だが卒業して医師になって彼女と両親の面倒を見ると、、
私はただ聞くしかなかった。。
そして頭の中で何度も繰り返し「まただ・・」と聞こえてきた、、
私が好きになる女性は何時も彼氏や付き合っている人がいるんだ。 

それから、、暫くして、、会社を辞めて、、家業の自営業をすることになった。

過去の記憶 | 【2014-08-13(Wed) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(8)
大学時代
大学に進学してからも、中高校から好きだった女の子のことを心の何処かに引きずっていたが、
県外へ進学して環境が変わったので思い出すことも少なくなっていた。 理系の単科大学だったので女学生が殆どいなくて気になる女性は出来なかった。

それでも3年生の頃だったか、、クラブ活動を続けていた中で試合・遠征で何度か見かける同じ県内の某大学の女性が気になり始めて、 幸い同じクラブ内に知り合いがいたので電話で「〇〇さんと付き合いたいが、彼氏はいるのか?」と聞いてもらったところ「先輩とお付き合いしていて、大学を卒業したら結婚する予定」 ガーン!! またしても既に彼氏がいた!!

お相手に直接告白はしていないが、友人を通じて好意をもったことを伝えれたことは後々引きずらずに済んだ。
そしてこれに費やした期間はとても短かったように思う。

クラブ内では、他の大学の女子学生と付き合っている人もいて、私は以前に比べて羨ましく思うレベルは低かった。
それよりは試合で勝とうと言う気持ちが強くて、彼女が欲しい気持ちはそれ程強くは無かった。 

また学業も学年が上がるほど履修しないといけない科目や実験・実習が多く、また部活にものめり込んだし「彼女が欲しいんなぁ~」と妄想する暇な時間が無かったことも幸いだった。
ここでも女性と付き合う経験を積むことが出来なかったが、当時はそれ程重要だとは思っていなくて、 
それよりは前に書いたが部活で味わった悔しい思いが圧倒的に大きかった。


過去の記憶 | 【2014-08-05(Tue) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(4)
中高生時代
小学校を卒業して私立中・高等学校を受験したが、不合格!  両親の落胆した表情は今でも忘れらない、、
私には兄・姉がいて頭もよくて其々中学受験をして、各々私立中・高等学校に合格! 
私だけ、失敗して公立中へ、、入学当時から家族のなかで『負け犬』のような感情を抱いての中学生活が始まった。

中学1年の終り頃に本気で好きなった女の子が出来た、 そこから私の長年にわたる苦悩の歴史でもあった。
好きになったのはいいが、既に付き合っている男子がいた。 クラスの公認?でお似合いカップル!

何がお似合いかといえば、先ず女子はバ〇ケ部で活躍、〇〇市大会で〇位入賞、お相手の男子も当時花形だった野〇部でエースで4番。 頭でも運動でも到底私の叶う相手でない!!
当時野球部は人気ナンバーワンで、そこに所属していてエースで4番とくれば、学校のヒーローだ!!

それで私はカップになっている女の子に告白する勇気もなく、それで諦めたかと言うと、諦めきれずに、長い間引きずってしまい、新たな恋愛をすることが出来なかった。

それで中学を卒業して高校へ進学したのだが、、そこで運命の悪戯と言うか、
偶然にも同じ高校へ中学時代好きだった女の子も進学していた、、しかも中学生の時に付き合っていた男子生徒は別の高校へ、私の恋心が再び燃え上がった。

・・・が、現実は早々上手く運ばない、
彼女にはすぐに彼氏が出来た、しかもまた当時の花形である硬式野〇部のエース、本気で甲子園を目指せる程の実力。

またまた私とは雲泥の差、けれどどうしても諦めきれない!! それならダメ元で告白してキッチリ断られたら新たな道に進めたのに、、私はそれをしなかった。
ただ自分の心の中で悪魔と天使の声ではないが、「ダメだから次だ!  諦めるな!一生懸命思っていればきっといつか通じる!」と相反する声に右往左往するだけだった。

結局これは高校を卒業して十数年後の〇〇高校、創立〇〇〇年、〇〇年度、合同同窓会で顔を合わして、その時にお酒の力も借りて「高校の時には好きだった・・」とやっと言えて、返事が「あら~、そうだったの・・」と軽く受け流れて・・・、 
それまでの私の思いは何だったのか! 中学生から〇〇年間抱き続けた“一途な片思い、恋の呪縛”が一瞬にして解かれた。

過去の記憶 | 【2014-08-03(Sun) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小学時代
いいキッカケを頂いたので、過去の私の恋愛・恋について、つらつらと書き綴って行くことにします。

小学校の低学年のころ、これが初恋だったのか疑問は残るが、 クラスに気になる女の子が出来た。
しかし奥手だった私は、そん素振りを一切見せることなく、ただ遠くから見ているだけだった。
そんな時に運動会のお遊戯・ダンスで男女が順番に相手が変わっていく催し物があって、練習を何度か繰り返すうちにその気になる女の子と手を繋ぐ機会があって、心臓がバクバクしたことを覚えている。

しかし、そんな恋心も何時しか醒めた? その女の子の顏も名前も思い出せない、印象に残っていないのです。
それから後に気になる女の子はいたように思うが、これまた顔も名前も状況も一切思い出せない、

小学生のモテル要素?「運動・走るのが早い! 面白い!」 全く持ち合わせていない私はクラスの中では印象の薄い存在だった。 そして目立たないおとなしい子供であったので、自ら女の子へ話しかけることもなく、、

中学受験の為に5~6年生になると塾に通ったが、そこでも気になる女の子はいたのだが、 
遠くから見ているだけで、、結果は不合格で公立中学校へ進むことになった。 

過去の記憶 | 【2014-08-01(Fri) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
部活に
中学になってから初めて活動と言うモノを始めた。 最初に入った〇〇部は筋力トレーニングが辛くて一学期の途中で辞めてしまった。 そして二学期に入ってから、友人に誘われて〇〇部に入った。
最初に入った部活は「あんな風にできればいいな~、カッコいいなぁ~」と憧れが志望動機だったが、今回は『誘われたから・・』と言う消極的な動機だった。 

そもそも部活に入ったのは、兄や姉を見習って? それは兄姉共に中学に入ると其々違う部活に入り中高と続けていた。
だから最初に憧れて入った部活を止めた、、これに後ろめたさを感じて? または負けたくない?

そんな時に同級生が〇〇大会で〇位になった!!!
それでまで試合に出ては1~2回戦で負けていて、負けた悔しさはあったのだが、 その時に「毎日同じような練習をしていて、あいつが勝って、俺が何故勝てないのか!」と言った、今までにない激しい競争心?負けん気、悔しさが込み上げた。

それで高校に入ってからも続けた、目標はインターハイに出場! 
だか、3年生の時には下級生に負け、レギュラーに入れず、 結果インターハイへの出場も敵わず、 同級生はインターハイへ出場。 卒業して数年後には後輩たちが団体でインターハイへ出場した、 私だけが取り残された?? 悔しい思いだけが残った。

大学に進学する時も強い大学へと一瞬考えもしたが、私の体格・身体能力からして到底無理だと直ぐに思い直した。
そして私の成績からして国立や有名私大には到底入れない、それなら浪人?? しかし成績がアップして志望校へ入れる可能性は? 色々考えて志望校をランク付けして順次受験した。

当然の如く第一志望は落ち、少し自信があった第二志望に落ちた時にはとてもショックで、その時には浪人して再び挑戦しようと思ったのだが・・・、 第三・四志望には合格、その時は両親が喜んで入学手続きをしていた。
それを振り切ってお金を捨ててまで「浪人する!」と、断固たる覚悟もなく、私自身も浪人の大変さ辛さを兄を見ていて感じていたので、結果地方の某私大に落ち着いた。

けれど、心の何処かに「希望した大学でなかった」と、悔しい思いが払拭できずにモヤモヤしたものがあった。 
そして心の何処かでバカにしていたような・・、そんな時に普通高校卒の私より工業高校から進学してきた人が勉強ができる? 頭がいい? この現実に愕然とした。
私の全くの勝手な思い上がりなのだが「普通科に入れないから工業科へ」 このような思い込みがあって、しかし他県の工業高校卒の同級生は私より勉強ができた、とてもショックだった、そして自己嫌悪に陥った。

そこでも同じく〇〇部に入った、体育会系だったのだがレベルは高校に比べて低かった。
当時は自前の練習場所を持っていなかったので公共施設の練習場所を借りて練習をしていた。 
その為週末には練習場所が借りれず練習が休みだった、それで私は近く他の大学へ練習に出かけた。

今思い出せは、、怖いもの知らずでよくもやったモノだ、、、、
試合でしか見たことない相手の大学に単身で乗り込んで行って「一緒に練習さしてくれ!」とは、何やら怪訝な顔をされ決して歓迎はされなかったのだが練習には参加できた、上手い人と練習できるとこちらには学べることが多いし緊張感が全然違っていた。 

下級生の頃にはこんな勝手なことも出来たのだが、上級生になると私だけ自由勝手な行動が取れなくて、それなら他の大学く練習試合をしようと提案したのだが拒否され・・・、そこら辺りから部活の活動方針で私と他の部員との意見の相違が顕著になってきて・・・、

私は試合で勝ちたかった!! ただそれだけ。
しかし当時のクラブの雰囲気は「出場してもどうせ負けるだろう、、負けると決まっているの〇〇大会には出場しない!?」
この考え方が私には信じられかった!! 当時入った〇〇部は体育会所属。 同好会や愛好会と言った親睦を深める?お遊びのクラブ活動ではない、
確かに私の在籍していた当時〇〇大会へ出場して、結果一回戦で負けることもあった、負けてばかりいたことは事実。
けれど試合に出場すると言うことは、勝とうと思って出るのではないのか!! 結果負けることがあっても最初から負けるから試合に出ない、参加しない?

上手い人の試合を見て、何かを学ぶ姿勢・考えが無かったことに私は愕然とした。 
それで益々私はクラブ内では浮いた存在になって行った。

当時、監督や上手い上級生がいて教えて貰える環境では無かった、 それじゃ他の大学へ練習に行こうと、
しかし最後まで私と他の部員との考え方が平行線で、結局上級生になっても、私だけ蚊帳の外になって不本意な感じで終わってしまった。
挫折感と自分の思うように出来なかった悔しさ無念さばかりだった、、そして何ら結果も残せずに終わってしまった、、
悔しい気持ちはあるが不思議に後悔はしていない、そして無駄な時間を過ごしたとは思わない、

これだけ、部活にのめり込んだのは、本にも書かれてたが、熱中することで心のバランスを保ってたのだと考えれば妙に納得してしまうのです。

過去の記憶 | 【2014-07-11(Fri) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
薬の効能
私は腰や関節の痛み、中性脂肪・コレステロール値が高いこともあって、病院通いと投薬治療が続いている。

ずっと前に私が医師から処方された薬を飲んでいると突然「薬は体に良くない! 飲むを止めろ!!」と母が・・、
これは母が前に飲んだ薬で体の調子が悪くなった? 私は迂闊にもそれを信じてしまい大変な目にあった。
それ以来、食事も言えるのだが、見えないところでサッと早く隠れて薬を飲むようにした。

薬の副作用で何かしらの症状が出たのなら、医師にそのことを言うべき事柄であると思うが、、
外面のいい母は決してそのことを言わない! 通院していた病院を止めて変えて別の病院へ、、そして前の病院での悪態を家で私にぶちまける、私は関わりあいになること避け完全無視を決め込む。

更に「誰かが〇〇を飲んで体の調子が良くなった? 〇〇が治った!?」と聞けば それを実践しだす・・、
前に「尿を飲んだら健康になる?」これはSMプレーとは全然関係のないお話ですから、それを言ったのは医師ではないことは確かだ、しかし信じて自分の尿を飲んでいた、、そして家族にも本気で勧める!? 

巷にあふれる民間療法のたぐいに簡単に感化される?? これはワイドショーで取り上げられる“占いを信じて全財産を〇〇につぎ込む” これに近い話であり得る話だと私は思う。

これもあって私は母の話には一切返事をしないようにしている。 
そうすると、だんまりの私に対して容赦ない言葉が「そんな態度から人に嫌われる!! 可愛げがない!! 女性に相手にされない、、だから結婚も出来ない、、 もっと明るく朗らかに笑顔で話をせんのか!!」と、、私は聞きたくない!! 耳を塞ぎ、 これらの罵詈雑言に必死で耐える。

そうしないと下手にその声・話に返事をすると私自身が阿鼻地獄に嵌り、もがき苦しむからだ。
そんな私にこれでもかと!! 悪口、小言・文句の波状攻撃を浴びせかける、私は身も心もタズタに壊される。

しかし当の本人=母は子供の為を思って、不憫に思って、正しいことしている、言っていると信じているから、
何を言っても聞く耳を持たない!! 『正義は我にあり』

こんな経験から、私の防衛体制は母の話・声には返事をしない無視をする。
「そこを耐え忍んだら、、何とかなる?」 子供の虐待として手を上げて叩くような暴力行為が顕著だが、言葉の暴力も心をズタズタにする激しい行為であることを知っているのだろうか、厄介なことに本人に虐待した意識が全くないことが問題だ。
そこから私は感情の喪失をするようになったのかもしれないと、、最近思うようになった。

過去の記憶 | 【2014-07-08(Tue) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(5)
腰のこと。
私は今から数十年前の20歳代に腰を痛め、そして**年前に腰の手術・入院リハビリを経て一見すると普通の人間のように変わりなく生活を送っているかのように見える。
が・・・、現実は違っていて『出来なくなった、 出来るが辛くなった、 出来ればしたくない』これらのことがある。

   畳の部屋に布団を敷いて寝ることが辛くて出来ない! 
   布団の上げ下ろしが辛い!!
   今はベットで寝ているが、硬い材質でなければ腰が痛くて寝れない。
   和室=畳の部屋で胡坐を組んだりして座ることが辛い!! 
   重たいものが持てない、運べない! 長い時間立っていると辛い! 
   椅子に長く座るのも辛い! 
   仕事=自営業、配達もするのだが、何せ重たいものが持てない、
   階段の上り下り辛いし立ったままでの作業も辛い!!
   外で活動的なこと=運動などをしようとは思わない! 
   同じ姿勢でいることが辛い!! 
   長時間の移動が伴う旅行に行こうとも思わない! 
   それよりは『家で横なって休みたい!』この気持ちが強い! 
   長年の腰の痛みの影響か、左ひざに痛み、右足親指の関節の痛みに悩まされる、

腰に関しては何度かここでも書いただが、読み返してみてその思いは変わっていない、
    『憐みや同情はして貰いたくない!! ただ私の腰のこと理解してくれ!!!』 

けれど両親は「手術して〇年経った、治った? 忘れた?」 それよりは自分達が歳をとって体が弱ったと、自分達のことばかりを言う。

手術・入院・リハビリと約〇年程全く働くことが出来ず、その後も半人前の仕事しかできない、稼げない。
それが判っているからこそ私にできること、健康に関わること以外にはお金を使わない! 
だが、、その私の気遣いに両親は全然気付かない。

私の方こそ 『私の腰のことを判ってくれ!』と、声を大にして言いたい!! 
これは先に述べたように同情や憐みが欲しい訳では決してない、ただ理解してくれ!!これだけ、、

しかし、私が「階段にモノを置くな! 階段を踏む外すのが怖いからモノを置くな!」 と言っても・・、 
私が重い物を持つのが辛い、階段の上り下りが辛いとを知っている筈なのに、知っていて“わざわざ”するのだ。

知っていて“わざわざ、敢えて”私の辛い出来ないことをさせる、これは長年母が父していた夫婦喧嘩の時間差攻撃と同じ手法、
私が過去に何かしたことに対しての仕返しなのだ。 だから物を階段に置いてそれを踏んで転げ落ちた私に「〇〇を階段に置いてあるから上る時に私に持ってあがれ!」と言う。
そもそもだが、私が思い描くようなこと=私の腰の理解したり、自分達のしてきたことを謝ったりは絶対に両親はしない!!  両親であっても他人であり“他人の性格は絶対に変わらない”

私の腰に関しては、ブログのプロフィールに掲載「BLOG運営方針&自己紹介」を参照して頂けば幸いです。
腰を痛めた時に母から言われて嫌だったことは、ブログのプロフィールに掲載に書いていること変わりないので抜粋。

     -◇- 以下抜粋 -◇-

今にして思えば・・・、
(当時)腰を痛めて約**年間程 病院巡り、診察、検査、更に心因性or脊髄神経性ED、
そんな時に念仏のような母の言葉が、頭の中を駆け巡りました。

「あんたは ***だから、***出来ない(**になってしまった)・・・、」
「・・・こんな体になってしまって、仕事(結婚)も出来ない、情けない・・・」

私の場合には 前述ような言葉を(母から)言われ続けると・・・・、
私の被害妄想なのかもしれませんが、
自分の価値・存在まで否定されたような錯覚に陥りました。

そして 益々悪くなり、如何しようも無くなり 手術、入院、リハビリ…、
重ねて母から「愚痴、残念な気持ち、情けなさ、悔しさ・・・・」色々と混じった複雑な心境だと思うですが、
    「あんたは ***だから・・・・」と言われ続け、更に自分で自分を
    「世界で一番不幸な人間、劣等感、恨み、妬み、僻み、嫉妬・・・」追い込んでしまっていましたね、
    「如何して こんな事に なってしまったか!」
    「俺は 駄目な人間・・・・」
無駄に時間を過ごしてしまい、気づけば完全に“歳をとったお爺さん”ですね、

自分は「世界で一番不幸な人間、劣等感、恨み、妬み、僻み、嫉妬・・・」完全に悲劇の主人公ですね、
如何に不幸かを世間に認めて貰いたい、不幸自慢・自己陶酔に嵌っていたのかもしれません。

今頃になって思うのですが・・・・、
人は 己の存在を否定される(?)と 自ら価値のない人間だと思うようになり、
行き着くところ 生きて行く価値のない人間だと思うようになってしまい、
益々“視野・考え・思考”が狭くなり 悪い事ばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか?

そこで 世間に対して「俺は こんなに不幸だ!」「***されて来た!」等と『不幸自慢』を叫んでみても何も変わりはしないし、何ら問題解決にもならないのですよね、
ましてや“親子の縁”は絶対に断ち切れないものなんだから、

過去の記憶 | 【2014-07-06(Sun) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
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